口コミ4件

  • Whackysigns
    日本
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    総合コメント4.0
    元在校生(通学期間:1991年9月~1996年6月)2014/11/12
    自分が入学した年にChapman CollegeからChapman Universityに変わり、それまでのこじんまりとした私立大学から、少しずつ規模を拡大していったと思います。とはいってもまだ規模は小さいようですが・・・ ですので、キャンパスも付近にあるUCや州立大学と比べるととてもアットホームな雰囲気です。その規模に応じて図書館の蔵書数が少ないのは難点ですが・・・緑も多くて、ヤシの木も植わっていて、いかにも南カリフォルニア!という空気が漂っていて自分はとても気に入っていました。自転車とバスを活用すれば、クルマがなくても行動範囲はぐっと広がります。 授業も当時は一クラス多くても30人程度でした。自分の専攻があまりChapmanでは当時メジャーではなかったので、3,4人しか生徒がいないこともよくあり、教授や他の生徒とも仲良くなって、卒業式後に近くのバーでビールをおごってもらったのはいい思い出です。 自分は日本人では珍しく、Seniorになるまで寮住まいでした。食事も三食食堂で取っていたので、特に生活面で困ることはなかったですが、食堂の食事がまずいまずいと文句を言う人が多かったですね。無頓着な自分は平気でしたが。ルームメートも基本アメリカ人で、まぁいろいろありましたがすべて良い思い出です。 日本人以外のInternational Studentが多い学校だったので、いろいろとケアしてくれる専門の部署があり、ちょっとしたオリエンテーションやイベントを催してくれて、生活に馴染めるように配慮してくれたのは助かりました。 テニスチームに所属していたので、授業以外の時間はほとんどテニス漬けの生活でした。残念ながらあまり上手くなりませんでしたが、チームメートと仲良くなって、皆でコーチが運転するバンに乗って対外試合に出かけたり、夜中にバーガーキングに夜食を買いに行ったり、大学生活を満喫してました。 卒業間近は、卒業生や教授の紹介などでコンピューター関連の会社で、大学の単位をもらいながらお給料ももらえるプログラミングのアルバイトに精を出していました。日本での就職も無事に決まっていたときに、「卒業後よかったら正社員としてウチで働かないか」とその会社から誘われて心は動きましたがちょっと待遇が低かったうえ、ビザが面倒なことになりそうだったので、あえなく断りました。あの時断ってなければ。。。

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  • オレンジへの投稿
    Whackysigns
    日本
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    総合コメント2.5
    元滞在者(滞在期間:1991年9月~1996年6月)2014/11/10
    まず治安はあまりよくありません。夜中に一人で安全に出歩けるエリアは限られています。夜、大学の駐輪場に自転車を施錠しておいたのに、しばらくして戻ってきたら鍵ごと破壊されて盗まれてしまいました。 地域がら、ヒスパニック系の住民が多いです。ついでアジア系、黒人といった感じでしょうか。大都会ではありませんが、決して田舎ではないので、田舎特有のアメリカの温かさとかフレンドリーさを感じることはほとんどないと思って良いと思います。 住まいは留学生向けのアパートなどの物件は多くあります。オートロック式のゲートがついているところを選べば、治安はある程度確保されますが、それでもちょっとした空き巣騒ぎや喧嘩などの警察沙汰も全くないわけではありません。 普通の住宅街として、スーパーやショッピングモール、レストラン、娯楽施設に困ることはありません。全体がコンパクトな街なので、自転車があればほとんどの移動は事足りると思われます。車があればディズニーランドまで20分ほど、NewportやHungtingtonといった有名なビーチまでは40分から1時間という立地ですが、オススメは地元のOrange Circleと呼ばれるエリアで、周囲にはアンティークのお店などが立ち並んでいて、週末にはちょっとしたイベントなども開催されていて、暇つぶしにはもってこいです。 自分はこの町の大学に通っていたので半ば仕方なく住んでいましたが、それ以外の理由で住むことは考えにくい、他人にはおすすめしにくいです。

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  • ギルフォード高校への投稿
    Whackysigns
    日本
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    総合コメント4.5
    元在校生(通学期間:1989年9月~1991年6月)2014/11/10
    とにかく田舎の高校です。環境、治安は抜群です。秋は紅葉がキレイで、冬は寒く、山や湖が多い地域なので、日本でいうと東北地方に近い環境です。 そんな環境ですので、当時は日本人の生徒は自分ひとりだけでした。アジアという広いくくりでももう一人、マレーシア出身の生徒がもう一人いたぐらい。珍しがられてよくいろんな質問をされました。 言葉の壁がもどかしくて、なかなか友達も最初は出来ませんでしたが、みんなフレンドリーで、卒業して25年以上も経っているのに、Facebookでつながってたり、震災のときには心配してメッセージをくれたり、同窓会に招待してくれたり(さすがに行けませんでしたが)、とにかく良い思い出ばかりが詰まってます。 勉強は別に留学生だからといって特別扱いはしてもらいませんでしたが、さすがに英語の授業ではうまく聞き取れていなかったりということが多かったので、その時は授業後に先生に正直に伝えると、いろいろとアレンジしてくれて助かりました。その代り数学の授業はラクでした。日本ではあれだけ苦手だったのに・・・コンピューターの授業もあり、これは大好きで楽しくてハマりました。 課外活動はとにかくテニスに没頭していました。今もいらっしゃるコーチ兼体育教官の先生が素晴らしい人で、テニス以外にも彼からは学ぶことが多かったです。2年間在学したうちの一年目で、テニスチームとして州のチャンピオンになり、その時の新聞記事は今でも宝物です。 大学進学時には、カウンセラーの方に親身に面倒を見てもらい、学校の紹介から願書の提出、TOEFL受験までアドバイスしていただき、彼のヘルプなしではその後の大学進学もあり得ませんでした。 最初は一年の交換留学だけで日本の高校に復学(留年扱い)するつもりで一旦帰国しましたが、あまりにもいい経験をさせてもらったので、もう一年通って卒業させてもらえないか打診したところ快諾をいただき、その後アメリカで大学にも進学することができ、感謝感謝です。

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  • 日本国際生活体験協会(EIL)への投稿
    Whackysigns
    日本
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    総合コメント4.5
    元利用者(利用期間:1989年8月~1990年6月)2014/11/10
    EILの交換留学生プログラムに応募して、1998年から一年間、アメリカのホストファミリー先に滞在しながら現地の高校に通いました。 ここのプログラムを知ったきっかけは、確か母が関わっていたガールスカウトの広報誌か何かの広告を通してでした。 一次試験は地元付近で開催の筆記およびリスニングでした。かなり昔になるので難易度などは覚えていないですが、かなり緊張して臨んで、リスニングもちょっと聞き取りにくかったり、流れるテープが間違っていたりしたのを、他の受験生の方が幸いにも監督官の方に指摘していただいて事なきを得たり、といったようなハプニングがありました。(後年、このハプニングは仲良くなった留学仲間と長きに渡って語り草になりました) 二次試験は東京での英語の面談と筆記(作文)があったように記憶しています。面談は自己紹介に毛が生えた程度の内容だったかな。筆記はホストファミリーとうまくやっていくために大事なことは?といったような質問に対して英語で答えました。 二次試験をパスすると、今度は合格者全員そろって東京で出発前の合宿形式のオリエンテーションでした。ここで、約25年以上たったいまでも多くの仲良しの仲間と出会うことになります。OB、OGの方と交流したりして、留学の雰囲気を少しでも掴むのが主目的でした。 そして現地に出発!実際にホストファミリー先に向かう前に、3週間ほどの現地での集合研修がありました。夏休み中のマサチューセッツ州のHampshire Collegeの寮に滞在しながら、日本から集まった仲間以外にも数名別の国から集まってきて、英語の勉強をしたり、アメリカの文化に触れたり、多彩なプログラムを経験し、それはそれは中身の濃い3週間でした。実際に各自ホストファミリーと電話で話す機会も設けられていて、あんなに緊張したのは生まれて初めてでした。 その後、NY州での短い集合研修で全世界からの仲間が集まってオリエンテーションをやったあと、各滞在先にみんな散っていきました。 その後も地域ごとに集まって顔合わせの会があったり、同じ州に滞在している仲間とスキーツアーが企画されてたりで、とにかくケアが手厚かったです。田舎の州だったので日本語が話す機会が圧倒的に少なくて、寂しかったですがそのぶん英語の上達も早かったです。 とにかく一生の思い出を作ってくれたEILに感謝感謝です。

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